スコットランド・アイルランド鉄道の旅
1 はじめに
今でも思い出すのが2年前。父の危篤でイギリスから飛んで帰った飛行機の中で、またいつか来ることがあるだろうかと、重い気持ちの中にイギリスへの未練を引きずっての帰国。 それは退職後かねてからの計画で3週間の“イングリッシュガーデニングホームステイ”の1週間目だった。
しかし、心のどこかにまた行きたい気持ちが見え隠れし、ようやく家族、母の承諾も得て再びのUK行きが決まった。
今回はホームステイの家族の家、チェルトナムに最初と最後の日だけ泊まらせてもらうことにして後はBritRail フレキシルパスを購入しての列車での旅。
2 ヒースロー
5月27日
伊丹午前9時発の飛行機で成田経由ヒースローへと約12時間の旅。全日空利用のため日本からダイレクトに行けるので前回よりは早く感じた。イギリスには三度目の旅。ヒースロー空港の中身も少しは頭に入っているつもり。飛行機が遅れて着いたので、急いで入国審査、スーツケースのターンテーブルへとエコノミーから走ったのが運が良かったのか、思わぬ大スターに遭遇。この興奮も冷めやらないままバスに乗り、一路チェルトナムの家族の元へ。
3 チェルトナム
5月27日
ホームステイの家族の家はチェルトナムから車で約40分位のウインチクームというコッツオルズの有名な田舎町。久々に会うキャロルとハグをしていざウインチクームへ。なつかしい風景を見ながらこの2年間のことをキャロルに報告した。彼女もピーター(夫)のことや、兄弟のことを話してくれた。夕食も用意してくれていた。チキンのマヨネーズ和え、サラダ、フルーツポンチ。なつかしい味だった。夜はこれからまわるスコットランドやアイルランドの話を延々と更けるまでした。ヨークに以前二人が住んでいたこともあり、行くことを勧められた。エジンバラもおすすめだった。そして、スカイ島のも自然のすばらしさも聞き、ここも行くことに。時間があればアイルランドに渡るということで一応大まかな予定が立ち、ピーターも眠そうなのでお開きとしました。
4 ヨーク
5月28日
朝早くにヨークに向けて出発。キャロルにチェルトナムスパの駅まで車で送ってもらい、バーミングガム行きの列車に乗車。しばしのお別れです。キャロルはあのとき心配だったに違いない。今思えばあのときのキャロルの顔が忘れられない。 バーミングガムでヨーク行きの列車に乗り換え、ダービィ、シェフィールド、ウエイクフィールド、リーズを経てヨークに夕方到着。途中の景色は小高い丘に羊がたわむれている情景ばかりが広がっていたのに、リーヅに近づくにつれて町並みが広がってきた。どんな町にも教会があり、それを中心に町が広がっている。ヨークもしかりでヨークミンスターというステンドグラスが美しい教会を中心に町が城壁に囲まれて広がっている。
この町で改めて実感したのが私のひどい方向音痴(no sense of distance)。まず今晩泊まるところを駅の中にあるインフォメーションで紹介してもらい、そこでもらった地図を片手に重いスーツケースを引きずってB&Bザ・マウントにたどり着いた。その間、人に道を聞くこと3回。部屋は西向きの夕日が当たる暑そうな、でもこぎれいで2日間81ポンド。日本円にして約1万3000円。朝食付きで平均的な値段。
とにかくヨークの町並みを頭にたたき込もうと思って地図を片手に町の散策に出かけた。最初に入ったのがヨークシャー博物館。ヴァイキングの展示が多い。町を歩くときに地図を片手に老眼鏡をかけたりはずしたりしながら難しい顔をして歩いている姿は、たいそう変な日本人に違いないと思いながらも、迷い迷い晩ご飯のチーズとハムとパンを買ってB&Bに帰り着いた。夜の9時でも緯度が高いのでまだ明るい。ちょうど窓から見える家庭菜園では50代か60代ぐらいの人たちがラフでおしゃれな出で立ちで夕方の畑仕事を楽しそうにやっていた。畑の道具もカラフルでおしゃれで遊び心いっぱい。学ぶところ大いにあり。
5 ヨーク2日目 5月29日
卵、ウインナー、トマト、ジュース、コーヒー、ヨーグルトとB&Bの典型的な朝ご飯を食べ、前日一通りまわった町の観光に出かけた。まずヨークミンスター。バラのステンドグラスで有名。大いに見応えはあった。ヨークキャッスル博物館、斜めに傾いているシャンブルという街並み。大通りで露天がたくさん軒を連ねているのを発見。 特にのみの市には興味があったのでチャリティショップのようなお店に立ち寄った。チャリィティショップとは「売ります買います」のボランティアのようなお店で利益はすべて教会などに寄付される。そこで、お皿やティーカップを買った。隣の手作り陶器のお店では信楽で陶器修行をしていたというスコットランド人の女性に出会い、メールの交換をした。よっぽど信楽が好きだったみたい。作務衣のようなものを着ていた。
ここでも地図を片手ににらめっこしながら、今どこだっけ?といつも現在地確認。何回確認してもすぐ自分のいるところがわからなくなり、うーんとうなりながら地図上で自分がどこにいるかを発見してはわからなくなりの繰り返し。同じような旅行者が多いのにほとんど地図を持たずに、目的地に向かって歩いている様子は当たり前のことなんでしょうが、重度の方向音痴の私にとってはうらやましい限り。前日時間が遅くて入れなかったヨークミンスターにも行けたし、どうにかこうにかその日の行きたい場所をクリアし、B&Bへ。その日も太陽が傾いて暗くなるまで家庭菜園の人たちは楽しそうだった。
6エジンバラ到着 5月30日
翌朝、エジンバラに向かって出発。列車の中でイタリア人の留学生に出会い、長時間の列車の旅もあっという間に過ぎてしまった。日本に友達がいるイタリア人のジャンピエーラは、会ったその日にメールをくれていた。イタリア人らしくオープンで親切だった。
ようやくエジンバラに到着。その日の宿泊は、ロックキャッスルホステルという日本のユースホステルのようなもの。土曜日だったせいもあり、どうしてもB&Bが取れず結局、若者が多く利用している安いホステルに決めた。1泊素泊まりで13ポンド(2120円)。なんと安すぎ!受付の女の子たちも感じが良く、時間まで荷物を預かってくれることに。目の前がエジンバラ城なので荷物を預けて、お城の見学に。ホステルを出て目の前にエジンバラ城がそびえ立っているのにどこから入ればいいのかわからず、道行く人に聞くと「ここからロッククライミングをして上れ」となんとユーモアーたっぷりの受け答え。石垣の横の階段を上がっていくんだよと最後には教えてくれた。まるで石のお城といった具合で砲台がたくさんあり、敵から守るための要塞のようなお城だった。
次は町を歩こうと思い、メインストリートの端から端まで歩いた。休日なのでパイパーという鼓笛隊がスコットランドの曲を演奏していた。店屋には純毛100パーセントの分厚いセーターがたくさん並べられていた。ヨーロッパの北ということもあってヴァイキングのおみやげ物も多くあった。教会で明日の夜にコンサートを開くという事を聞き、明日の予定に入れて、カフェらしきところで夕食。オープンハンバーガーとサラダとポテトフライ。9ポンド55セント。ホステルに戻ると、部屋は10人ぐらいの大部屋で2段ベッド。若者ばかり。スペインの女の子たちに話を聞くと、6ヶ月ぐらいそこに住んでいるという。むんむんしてるし、にぎやかだし、トイレはくさいし、シャワーも狭いし、ベッドの上だけが自分の場所。ロッカーは与えられて鍵ももらうけれど、やはり不用心。そこで日本人の30位の女の子和恵さんに出会った。彼女はエジンバラに来て、約3週間経っていた。以前にイギリスに留学経験のある女性で、語学学校に通うために再度渡英。今はチャリティショップでボランティアをしながら英語の勉強をしている。こんな場所に長く住み、語学の勉強だなんて、若いから出来るのか、私にとっては驚きだった。彼女とも今もメールが続いている。土曜の夜は外でもコンサートがあり、にぎやかににぎやかに更けていった。
7エジンバラ2日目 5月31日
寝不足気味で小鳥の声で目覚める。この日は、前から泊まりたいと思っていた日本人が経営する、「森田エンポリオ」に泊まることになった。このB&Bは少人数しか泊まることが出来ず、土曜は予約がいっぱいで泊まれなかった。日曜日は空いていたので幸運にも泊まることが出来た。サウスブリッジからバスに乗り、約10分で「森田エンポリオ」に到着。「エンポリオ」というのは店の屋号でオーナーは星野さんという方。エジンバラ大学に留学し、60年以上その地に住んでいるというお方。いろいろ話をしたいのを我慢して、B&Bに荷物を預け町の散策に出かけた。町の中央にローヤルマイルという道が通っていて、そのまわりに主要な観光スポットが点在している。歩いての観光にとても便利な町だ。 方向音痴の私にとってはとてもわかりやすい。聖ジャイルズ大聖堂、ホリルードハウス宮殿(ここは英国王室の宮殿として今も利用されていて、その日も利用中で入れなかった)を外から眺め、国立スコットランド美術館を見学して、エジンバラ植物園へ。 そこでも出会いがあった。54歳の一人暮らしの女性ニコラに出会う。前日にデパートでバッグをなくしたそう。カードでスコーンとハーブティーをごちそうしてもらう。二人で植物園の花をはしからはしまで見て回り、花談義に明け暮れた。歩いて町の中心街に戻る途中で彼女が橋の上から、白い大きな水鳥を見て、美しいと感動していたのを忘れられない。 サウスブリッジの手前で彼女の親切と優しさに大いに感謝をしてお別れをした。住所も交換したので、お礼に何かをお送りしなくてはと思っている。 バスに乗って、「森田エンポリオ」に到着。星野さんは相棒のジョンと一緒に暮らしていて、お二人は旧知の仲で息がぴったりと合っていた。二人で海岸に茂っているベリーの実をよく調達しに行くそうだ。それから、星野さんのエジンバラでの生活、自分の目指していること、等々、壮大なアンティークが飾っている家の中で延々と話が始まった。与えられた部屋も35ポンドにもかかわらず、スイートルームのような大きな部屋。私がイギリスで泊まった中で最高だった。
8 スカイ島へ
6月1日
そして翌朝のスコットランドならではの朝食。とても贅沢だった。ベーコン、ウインナー、エッグ、ハギス(羊か何かの内臓の薫製にしたものを味付けして焼いたもの)ベリーのジュース、トースト、フルーツポンチ、コーヒーと豪華絢爛。何日もの栄養を取りだめして、その日はエジンバラに別れを告げて、スカイ島に向けて出発。
今回の旅行の移動で一番電車の接続が心配だった日程。スカイ島はブリテン島の北西にあり、スターリン、パース、インバネスを経由して、カイルオブロコからスカイ島の中心地ポートリーまでバスで行く予定だった。ところが案の定、列車の1時間以上の遅れがあった。カイルオブロコ行きの列車はとっくに出た後だった。エジンバラからカイルオブロコまでの長時間、長崎に住んでNOVAで教えていたスコットさんという青年とその男友達に出会い、親日家のスコットさんと話が弾む。列車でインバネスから代替のバスが出るというアナウンスを私ははっきり聞き取れずにそのまま駅を出ようとすると、スコットが「エミコサ~ン」と大きい声で呼ぶので振り返ると代替バスの集合場所を通り過ぎて行ってしまっているのに気づいた。スコットに大感謝。これに気づかなければその日のうちにスカイ島に着くことが出来なかった。インドの男女の若者4人とスカイ島の妹の家に行くというおじいさん、そして私の6人を乗せてワゴン車は、ネス湖沿いの長いくねくねした道を延々と走り、カイルオブスカイへ爆走。私の隣に座っていた最初は気むずかしそうなおじいさんが「ラックネス」と何回も言ってくれているのに、それが「ネス湖」だと気づくまで時間がかかった。長い底の深そうな深緑色をした湖だった。ようやくカイルオブロコでバスに乗り、ポートリーに向かったけれどそれも途中まで。ブラッドフォードという町で降ろされ、目的地のポートリー行きのバスを待つこと1.5時間。そこでオランダからエジンバラのマラソンに出場した若者に出会った。マイペースでホステルにその日は泊まると言っていた。旅慣れているようだった。英語は少々聞き取りにくかった。ようやくポートリーに到着。それまでの景色は緑の丘陵に羊、羊、羊、それから先も町から少し出てもスカイ島はすべて同じ景色が広がっていた。岸壁には巨大な岩が多く「ブーツオブジャイアント」(巨人の靴)という岸壁の岩など名所があった。その日のB&Bはウエスタンミュージック好きのスコールさん宅。スカイ島での2泊とグラスゴーでの1泊はエジンバラのインフォメーションで親切な担当者と相談して、すでに決めていた。そのスコールさん宅を目指して、貰っていた地図らしきものを見ていくのだけれどもやはり迷い、結局タクシーでたどり着いた。小さいちゃちな部屋だったけれども2日間でトータル9ポンド50。節約のためにその日は、すぐ近くにあるCOOPで夕食を調達し、部屋で食べた。スーパーの薫製のサーモンだったけれども日本で食べるよりもボリュームがあり、安くて本当においしかった。窓からは「ブーツオブジャイアント」が見え、外はいつまでも明るかった。
9 スカイ島2日目 6月2日
朝からドベイカン城を循環バスにのって見に行った。一日券を買うとその日は乗り放題なのでお得。観光客のおばさん2人組にお得な情報を教えて貰い、お城の後はサーキュレイトという循環バスに乗って島巡り。ドベイカン城はお城も古くて立派だけれども、イングリッシュガーデンが圧巻だった。5つの種類の広大なガーデンが広がり、見るのにかなり時間もかかったが、トラディショナルな庭からナチュラルガーデンまでエジンバラ植物園もとても立派だったが、歴史を感じさせる本当に見応えのある庭だった。時間もおしていたので、バスに乗りポートリーに戻る。町の郵便局に寄り、両替をしようとしたらどこかで見た顔、聞いた声、B&Bのオーナーのスコールさんだった。ここでバイトをしているそう。途中で前日であったオランダの若者が自転車で道をあがってくるのが見えた。島をサイクリングで巡るそうだ。私は楽ちんのサーキュレイトバスに乗って島の北半分を巡った。 島の循環バスなので、ちょうど小、中学生の下校バスにもなっていた。子どもたちの一群がバスに乗り込み、一人二人と羊が群れている緑の丘の家々へと消えていった。スカイ島の昔の藁葺き家を横目で見ながら、ポートリーに到着。夕方でまだまだ明るかったので、お買い物をしてB&Bに帰った。
10グラスゴー
への道
6月3日
スカイ島での最後の朝食を食べ、いざグラスゴーヘ。ポートリーからブラッドフォードでバスに乗り継いでカイロオブロコ駅に着く。そこでこの旅行での一番のアクシデントがあった。アメリカ人の女性ルーシーが駅でバスを降りた時に財布をバスに置き忘れたことに気づいた。それから彼女の口から「オーマイゴッド」の連発。財布の中にはパスポート、現金、アメリカでのID(身分証明)、クレジットカード、とにかく生きていくのになくてはならないものばかり。私は彼女の荷物番をしている間に彼女はバス停と駅を行ったり来たり。旅行者にとっては人ごととは思えない。私もそわそわどきどきだった。彼女が駅とバス停を何往復かした後、泣きそうな顔で戻ってきて、「ファウンド」(見つかった)と突然満面に笑顔。もうその時は彼女とハグをし、涙まで出てきた私だった。バスが戻ってくるまで財布が戻らないので、一足先に私はグラスゴーに向けて出発した。列車が出発するまで彼女は見送ってくれていた。財布が見つかって、後味の悪い思いをすることがなくて良かった。見ず知らずの人だったけれども、お金を貸そうかと提案したほどだった。
そして長い道のりを経て夕方、かつては炭坑の町、今は芸術の町と言われているグラスゴーに到着。ハンバーガーを夕食にして、まだ明るい夕方の町をうろうろする。ここは夕方に着いて翌日アイルランドに渡るので、早朝出発する中継点。有名な建物はすべて時間が遅くて閉まっていたので外から町を見学。歴史的な重厚な建物が多かった。
11 アイルランドへ渡る
6月4日
グラスゴーから列車でストローナーという港に行き、そこからステナフェリーで北アイルランドのベルファストという町に渡った。北アイルランドは、昔は政情不安定だったが、今は安定している。駅で絵はがきを書きながら約2時間ダブリン行きの列車を待った。ベルファストはポンドもユーロも使える。北アイルランド紙幣もある。ダブリンへ向かう列車の窓からの風景は、以前どこかで見たような、アメリカのダウンタウンのようなごみごみとした景色だった。 前の席ではとっても若い母親がほ乳瓶で遊ぶ赤ちゃんをしかったり、あやしたりしながら力強い腕で抱えていた。 ダブリンの町に到着。今回の旅の目的の一つ、サミュエルベケットの生まれた地を訪れる事。私が学生時代に専攻していた“シ
ュールレアリズム“(超現実主義)、そしてテーマが不条理のベケットの劇。言葉が無意味と言いながら混沌とした世の中を風刺し、それでいて何か一筋の希望を感じさせてくれたベケットの劇。それに会いに行きたい。
あこがれのアイルランドに着いたものの泊まるところも、インフォメーションもわからず。地図を見たり人に何回も聞いたりとようやくインフォメーションにたどり着いた。泊まるB&Bは「アイルランドB&B紀行」に載っていた、アンジェラの経営する「ガータンハウス」。インフォメーションで連絡をとってもらい、バスに乗って ジョージア王朝時代の典型的な建物にたどり着いた。アンジェラは「インフォメーションを通さなかったらもう少し安く出泊まれるし、サンドイッチとミルクティーも出せるのに」と言っていたけれど、翌日から毎晩サンドイッチをサービスしてくれた。ここを拠点に3泊4日のアイルランドの旅が始まる。
まずはその日のうちに歩いて今バスで来た道を戻って市街地まで出た。これも地図を片手、そして人に聞きまくり。おみやげを買ったり、アンジェラが教えてくれたパブ「スミス」でラザニアとギネスを注文。しめて15、65ユーロ。久々にごちそうを食べる。
12ダブリン2日目 6月5日
朝食はミルクティー、ベーコンエッグ、ウインナー、ヨーグルトなど、全てアンティークのバラの模様の食器が使われている。1泊45ユーロ。約6200円。平均的な金額。
アンジェラは本にも書いてあったようにはっきりしているけれども、面倒見が良くて何かと世話をやいてくれる。郊外の日帰りバスツアー、最終日のタクシーの手配、毎晩のサンドイッチ。それも家族がくつろぐリビングにまで呼んでくれる。
食事を終えて、ライターズミュージアムに直行。そこはベケットだけでなく、アイルランドが生んだ有名な作家、バーナード・ショー、イエーツ、ジェイムスジョイス、オスカー・ワイルド、スイフトなどの足跡が刻まれている。自筆の原稿があったり、彼らの肖像があったりと身近に感じることの出来た博物館だった。そして「ケルズの書」(福音書)があるというトリニティーカレッジへ。アイルランド最高の宝と言われている「ケルズの書」は図書館の奥にあり、多くの人々が列をなして見入っていた。ユーロ硬貨のデザインにもなっている、アイルランド最古のハーブも見学できた。その後、聖パトリック大聖堂、クライストチャーチ、ダブリン城、国立考古学歴史博物館など一日かけて一通り見て回った。ダブリン城はガイドの後をついて回るツアーで、贅沢の限りを尽くしたお城の内部を案内して貰った。ダブリンのアイスクリームもおいしいと聞いていたので是非食べなくてはと思い、店を見つけて食べることが出来た。濃くて、美味しかった。B&Bに戻って、アンジェラのサンドイッチをいただいて、就寝。
13ダブリン3日目 6月6日
朝から寒く、雨。バスに乗って一日バスツアーの集合場所へ。アンジェラの頼んでくれたツアーは少し小型のワゴン車だったけれども、お得で和気あいあいとしていた。カナダ人が多かった。しかしそこからどんどん山の中に進んでいき、ブレイブハートの舞台になったと言われる山々、森の中にたたずむ初期教会の跡、グレンダーロッホ、周辺の氷河が作り出した湖への散策。天気に恵まれていたら申し分のないツアーだったでしょうが、寒さと雨でかなりの消耗。終わるとすぐにB&Bに戻ってアンジェラのサンドイッチを食べて就寝。
14再びチェルトナムウインチクームヘ6月7日
アンジェラの手配してくれたタクシーに乗ってダブリンの港へ。予定していたフェリーに乗ることが出来たが前の高速フェリーは強風のため欠航。足止めにあうこともよくある様子。大型の少し時間のかかるフェリーに乗船して、英国に戻る。船はいつもの事ながら遅れてイギリスのホーリーヘッドの港へ。そこからチェルトナムまで列車の旅。飛行機の隣に座っていた50代と60代の女性の旅行者にフェリーでまた出会い、ひとしきり今までの旅行話を交換しあう。彼女たちはチェスターで一泊し、翌日ヒースローへ。チェルトナムの駅ではキャロルが心配そうな顔をして待っていた。私を見つけるとほっとした様子。彼女の車でウィンチクームの家へ。ピーターも話を聞きたがっていた。キャロルは何も食べていない私のために急いでサンドイッチを作ってくれた。その日は彼らの教会で洗礼式があると言うのでついて行くことにした。
イギリスは病院代、教育費全てがただ。親たちは子育てを終えて、ほとんど子どもたちとは同居せずに別に住んでいる。親たちシルバー世代は様々なレクレーション、教会でのボランティア、趣味の世界に時間を費やし、たまに帰ってくる子どもや孫に合うのを楽しみにしている。彼らの家もアンティーク家具は何代にも渡って受け継がれており、それらの家具を持って、家族のサイズにあった家に引っ越しをする。キャロルも子どもたちが巣立った後に、この手頃な家に引っ越してきた。共働きが当たり前で夫婦で働いている。キャロルは教師をリタイアした後「ホウムリンガ」というホームステイを受け入れながら、家で英語を教えるという仕事をしている。3食を共にし、一部屋を与える。私が泊まらせてもらったのもホームステイの狭間だった。忙しいにもかかわらず、受け入れて貰って私にとってはハードな旅行の最後の癒しの場になった。
15ヒースローから
日本へ
帰りの飛行機はヒースロー夜の7時発。チェルトナム2時のバスに乗るために、午前中キャロルは買い物につきあってくれた。そして最後の別れ、また今度は違う旅行スタイルでチェルトナムに行きたいと思いながら、最後の別れを惜しんだ。